赤十字創立者アンリー・デュナンについて

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創立者アンリー・デュナンについて

創立者アンリー・デュナンについて

アンリー・デュナンとはどんな人物か

アンリー・デュナンとはどんな人物か

アンリー・デュナンは1828年5月8日、ジュネーブで人道主義的な気風のあるプロテスタントの家庭で生まれました。しかし学業の方はいまひとつで高校を中退し最初についた仕事は両替業でした。その後26歳になったデュナンは起業家となり、アルジェリアで広大な土地の開発工業、金融の会社を立ち上げました。31歳の時に事業に必要な水権利を得る為にナポレオン3世に直訴しようという大胆な行動に出て、当時イタリアからオーストラリア軍を退却させようと北イタリアで指揮をとっていたナポレオン3世の元に向かいました。
この時にデュナンは北イタリアのソルフェリーノの戦いに遭遇します。このソルフェリーノの戦いが終わる頃には両軍の4万人を超える兵士が深く傷を負い、もがき苦しむのを見たデュナンはすぐさま地元住民の協力を得て救助隊を組織しました。
後にデュナンについての演劇の脚本を書いたミッシェル・ベレッティ氏は「この事でデュナンは大きなショックを受け精神的痛手を負い、それは生涯に渡って回復するものではなかった」と語っています。ジュネーブに戻ったデュナンはこの時の体験を1冊の本にして、戦争の悲惨さを訴え、より人道的に傷ついた兵士を援助する組織を構築していきます。今もこのデュナンが執筆した本「赤十字の誕生―ソルフェリーノの思い出」を読む事が出来ます。

赤十字の誕生―ソルフェリーノの思い出
赤十字国際委員会 ( ICRC ) の誕生

赤十字国際委員会 ( ICRC ) の誕生

1863年、デュナンは4人の友人と後の赤十字国際委員会(ICRC)の前身となる「5人委員会」を発足します。5人の交渉力の結果、スイス政府は16カ国を招待しての国際会議を開催し、最初の「ジュネーブ条約」の調印式がとり行われ、条約には戦争のルール、戦場での負傷兵の扱い、赤十字マークの規定を定めました。

ノーベル平和賞受賞への道のり

ノーベル平和賞受賞への道のり

しかし、デュナンのその後の30年は大きな失望の連続となります。ジュネーブでの人道問題に力を入れ過ぎてしまった事が本来の事業が難航し、1867年には金融機関の倒産に巻き込まれ、翌1868年には詐欺罪に問われます。多くの友人を巻き込んだこの事件で事実上追放されたデュナンは数年後には物乞いをするまでになってしまいます。
深く失望したデュナンはジュネーブを去り、1875年にはアッペンツェルン・インナーローデン州のハイデンに移り住みます。その後1892年には病気を患い入院。以降18年間、生涯を終えるまでそこで過ごす事になりましたが、その間もICRCは活動を続けていました。
しかし、世間はデュナンを完全には忘れてはいなかったのです。1895年にドイツのジャーナリストがデュナンを記事にし、再びデュナンに注目が集まり始め、1901年にはジュネーブ条約の創立貢献を称えられ初のノーベル平和賞を受賞します。受賞の際にICRCは公式の祝辞でデュナンこそがこの受賞にふさわしい人と称賛しましたが、その後1910年10月30日、特別な葬儀もなく波乱万丈とも言えるデュナンの生涯に幕が下りました。

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